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Showing posts from October, 2013

ADAM BEACH

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ADAM    BEACH カナダのインデイアン,正確にはソートー族(Saulteaux)と言うマニトバ郡周辺に住むネイテイヴ アメリカンのアダム ビーチは人当たりが良くて,チャーミングで,ハンサムな俳優です。 初めて会ったのは「ウインドトーカーズ」(02)と言う第2次大戦で暗号用にインデイアンの言葉を使うと言う作戦を描いた,ニコラス ケイジ主演の戦争ドラマの時。わざわざ首都ワシントンまで我々は招待され,当時のブッシュ大統領から勲章を受ける退役軍人のセレモニーに出席しました。大勢のインデイアンやアジア人の老いたヴェテランたちが誇らしげな表情を浮かべていて,胸が詰まったのを覚えています。このあとレセプシヨンがあり,胸を反らして,カナダのインデイアンの誇りを見せるアダムに会ったのです。ニコラスもニコニコとご機嫌でした。映画の会見でのアダムは,凄まじい環境に育ったものの,それを乗り越えて俳優になリ、今ここで自分の一族を代表する役を得て,嬉しくてならないともらい泣きをしてたのが印象に残っています。 1998 インデイアンの若者たちの面白いドラマ 感情の起伏が豊かなのも,アダムがアメリカの先住民でありながら,野蛮な原住民と虐げられて来た先祖を想う余りなのでしょう。 2002 「WINDTALKERS」 1972年11月11日カナダはマニトバのアシャーンと言うインデイアン居留地で生まれたアダムは、8歳の時に妊娠8ヶ月の母親を酔っぱらい運転の事故で亡くし,その直ぐあとアル中の父親が溺死(事故か自殺か不明なのですと)と不幸が相次ぎ,祖母のもとに引き取られ,居留地の学校に通います。ご存知の方も多いでしょうが,インデイアンのアル中率は非常に高く,居留地の周辺では事故が頻繁に発生するので,人々は非常に気をつけて運転するのですよ。 高校に入ってから演劇に興味がわいたアダムはもろもろの舞台に出て自分の進路を見出し,テレビのコマーシャルなどの仕事が入るようになります。 クリント イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」(06)でインデイアンの兵士,アイラ ヘイズ役を熱演,ハリウッドでも認識されて,アダムは民族の伝統を事ある毎に無知なアメリカ人に伝える事を使命に感じるとこの時の会見では殊勝に話してました。 「僕にはいつも先祖のスピリットが着いてい

ANNASOPHIA ROBB

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ANNASOPHIA   ROBB たまには若くてカワイい女優のプロフィールを。 ハリウッド男優名鑑の方が女優編より遥かに厚いと言う事実が男性優勢を如実に物語っています。ここに書くとき,男優の次は女優と順番を重ねようと思ったのですが,知名度やキャリアが通った俳優はやはり男優の方がずっと多いいのです。まだまだ監督や プロデユーサー,脚本,スタジオの社長は男性がほとんど、アカデミー賞などでノミネートする時,候補に入れたい男優がひしめき,女優陣の方はそれほど混雑していないと言うのも事実です。 アナソフィア ロブはまだ20歳。これからが勝負の若手ですが,ちょっときつい顔が味のある脇役になりそう。主人公の友人とか,意地悪な女友達などの役に平然と挑戦する根性を持っていると良いのですが。 今のところは,キュートな女の子の役が多く,既に3回程会見をしましたが,当人も可愛い女の子のイメージを通しています。 1993年12月8日コロラド州のデンバーに建築家の父親とインテリア デコレイターの母と言う恵まれた家庭に生まれ,8歳の時に演劇クラスに参加,両親に芸能エージェントを探して、と頼んだと言うこまっしゃくれた子供でした。翌年、母親は自分の仕事を中止して,娘に付いてロスアンジェルスに移住,コマーシャルの仕事などを始めたそう。 注目されたのはジョニー デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」(05)に出た時,次の「テレビシアにかける橋」(07)ではかなりの演技力も見せました。 今年の力作「ザ ウエイ ウエイ バック」は昔,まだ少年のリヴァー フェニックスが主演した「スタンド バイ ミー」を思い出させる14歳の少年の夏の想い出と言う甘くて,哀しくて,切ないドラマですが,その少年の隣の家の娘がアナソフィアで,やはり両親の離婚やトラブルを経た経験者と言う “年上の女” を軽快に演じています。 ほんわかした顔の少年が口惜しさやハヅカしさを乗り越えてしまった顔になって行く過程が胸に迫ります。隣の女の子はそれを理解する唯一の証人で,アナソフィアのいきがった態度が青春の動揺を生き生きと演じて,ヴェテラン俳優の大人たち,ステーヴ カレル(母親のボーイフレンド),トニ コレット(母親),サム ロックウエル(少年と仲良くなる遊園地の支配人)と並ぶ存在感を見せています。 アナ

JARED LETO

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JARED     LETO ハリウッド俳優の中でも,ベン フォスター,ジェレミー シスト,ジェレミー デイヴィスとこのジャレッド レトーは不気味な男を演じたがる,もしくはそう言う役がぴったりの変人役者たちです。彼らがいるからこそ,美形の2枚目たち,最後に女の子を獲得する主人公が光るわけで,若大将と青大将のちがいでしょうか。 話題の新作「ダラス バイヤーズ クラブ」(13)でジャレッドは何と女装の若者役を60ポンド近く減量して大熱演。良い気になって女漁りをした挙げ句,エイズにかかってしまったマシュウ マコナヘイがメキシコで仕入れた違法の薬の取引を手伝うおかまと言う役どころをそこらの女性より美しく,健気に演じて,助演賞候補のダークホースと注目されているのです。こう言う異常性のある役は記憶に残るので得でもありますし。 音楽好きならジャレッドが「30セコンズ トゥー マーズ」(火星に30秒)と言うバンドのスター歌手として有名で,世界中を巡業していること。 美人女優荒らしとしても悪名高く,キャメロン デイアズ、スカーレット ジョハンセン,リンゼー ローハン,シャリーズ セロン,アシュレー オルセンなどなどとデイトを重ねた事でも知られてます。 1971年12月26日 ルイジアナ州のボシエー シテイーに生まれ,旅行フォトグラファーの母親についてアラスカからハイチ,ブラジルなどを旅して,ヒッピー生活を送り、ここから音楽や絵画に興味を抱くようになったそう。 クレア デーンズが主役の青春テレビドラマ「アンジェラ・15歳の日々」(「マイ ソー コールド ライフ」)(94−95)の役を得て,以後,次から次へとヤング ドラマに出演。同じ時,リーヴァイスのジーンズやヒューゴ ボスの広告のモデルをしたりと新鮮な若さと反抗心のシンボルでもありました。 「ファイト クラブ」(99)や「レクイエム フォア ドリーム」(00)などの意欲作でもしっかり存在を見せる異色若手俳優と成長。 2013「DALLAS   BUYERS   CLUB」 そう言うキャリアがあるだけに,42歳にして既に淡々とした人となりを見せていて,何事にも動じない重みが感じられますが,同時にどこかに風の吹くまま、と言ったヴァガボンドの気ままな生き方も覗けます。 「バンドのメンバーがみんな
お知らせ。 今日(10月9日)から23日まで日本に行きます。 前半は母の世話,後半は東京映画祭に初めて参加します。 本部が六本木辺りにあるそうで,ほとんど半世紀ぶりの再訪! 祖母,母,叔母と私は鳥居坂と言う急な坂のてっぺんにある東洋英和と言う女学校に通いました。カナダのメソジスト系のミッシヨンスクールでしたので日本では珍しく土曜日がお休みでカナダ人の先生が大勢居て,英語の時間はとても充実してました。2代目の同級生はたくさんいますが,わたくしのような3代目は珍しかったのです。 聖心や双葉,白百合と言った女学校はカトリックで,こちらはプロテスタントですから,基本的に校風がぐんと地味なのです。敬神 奉仕がモットーでした。裕福な家庭の子女が多かったとは言え,それを見せびらかすのはみっともないと言う雰囲気が良い教育になったと思います。 と言う訳で少女から娘に成長した懐かしい学校のあたりを歩き回ってきます。 六本木のレオス デリカテッセンが仲間の集合所でしたがまだありますでしょうか。当時は瓶がぶら下がっているキャンテイが,ハイカラなインテリアとして評判だった古き良き時代,「ロッポンギ リヴィジテッド」になるでしょう。 と言う訳でしばらくお休みします。 信じられないでしょうがまだまだ書いてないスターとの写真がごっそり山のようにあるので,お楽しみに。

RAUL JULIA

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RAUL   JULIA ラウル ジュリアには3回位会いました。ラテン系の男性としてはめっぽう背が高く,威厳と格調が豊かで,そばに居るだけで安心感を与えてくれる博愛の情も漂わせてました。 最後に会ったのは「闇に抱かれて」(95、死後の公開)の時で,げっそり痩せて,青白く,誰もがひどい状態だと見て取れましたが,そーっと「健康状態は如何なのですか?」と聞くと 「非常に良いですよ。役の為にダイエットをしているのです。大した効果でしょう!」 と軽く一蹴。真っ赤な嘘と知りつつ,わたくすは息を殺してうなずいたのでした。 1988「愛と哀しみの十字架」 会見は1994年のはじめで,この年の10月24日にたった54歳で亡くなってしまったのです。死因は脳卒中の合併症と発表されました。 1940年3月9日,プエルトリコのサンファンでレストラン経営の両親のもとに生まれ,小学1年の時に学芸会で悪魔を演じて,その迫力と演技力に会場がしーんとなったとか。 英語もしっかり学んで小学生の時にシェイクスピアを朗読したと言う怪童でした。 しっかりプエルトリコ大学で歴史を専攻したものの演技熱は高まる一方で地元の劇団に入って演技を磨きます。 卒業してすぐニユーヨークへ。ここではスペイン語が話せる事が役に立って,もろもろの舞台の役が舞い込みます。 メリル ストリープと「三文オペラ」や「桜の園」で共演したりと70年代後半はブロードウェイのスターに。 ふたりの競演を今もう一度是非みたいものです。 映画の方は「蜘蛛女のキス」(84)の政治犯の役で注目され,「モーニング アフター」(86),「推定無罪」(90)などの良い味の助演を見せます。 この頃に初めて会いましたが,軽快なウイットを飛ばす洒落た人となりがいかにも舞台出身らしく,ヨーロッパの俳優のようなダンデイズムがとても素敵でした。 「アダムス ファミリー」(91)と続編(93)ではお化け一家の家長,ゴメス役をコミカルに,ワイルドに演じて一躍ハリウッドのメジャー スターとなりましたが,当人からは有名人などと言うステイタスを重要に思っている節は全く伺えなかったと言いましょう。 この写真は「愛と哀しみの十字架」(88)と言う神父のドラマでカソリック教に育ったに違いないラウルの冒瀆の罪の深さが痛

BRITTANY MURPHY

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BRITTANY   MURPHY いつも抱きついて来て,ちょっとしゃがれ気味の甘い声で,お元気とか,久しぶり! てな事をまるで親戚の女の子のように親しげに言うのが,ブリッタニー マーフィーの想い出です。 初めて会ったのは「17歳のカルテ」(99)でアンジェリーナ ジョリーやウイノナ ライダーとしっかり張り合って獄中の女の子を熱演した時。 「私って生まれた時から,人前で注目されるのが好きだったみたい。笑ったり,何かの芸をしては訪ねて来る人を楽しませたって母が言ってますもの。それで4歳から歌やダンスを習って,13歳になった時,ロスアンジェルスに行きたいと母に訴えたら,母は持ち物を全部売って,すぐに一緒に行きましょうと言ってくれたの。母は私の全てを分かってくれて,私たちは一心同体みたいなもの。母が居るところが私にとってはホームなの」 と大きな眼をさらに大きくして,けらけらと笑いながら話してくれた。 2歳の時に両親が離婚,父親はアンジェロ バートロッテイと言うイタリア系だったそうですが余り家族を顧みず,戸籍の上でもブリッタニーにはバートロッテイーと言う名が付いてなかったとか。シングルマザーの母親は一人娘の夢を叶える為に見ず知らずのロスアンジェルスに来て,色々な仕事をしながら家計を立て,娘のレッスンやオーデイシヨンに付き添ったと言う典型的なステージ ママでした。 こう言う不幸で貧乏な母娘の状況がブリタニーの妙に寂しそうで,愛情に飢えたような雰囲気を作り,同時に彼女の絵に描いたような可愛い美貌が業界の毒牙にかかりそうになった事もしばしばあったに違いありません。何かそう言う痛み付けられた深い傷があるような脆さが一緒の魅力でもありました。 「ジャスト マリッジ」(03)で共演したアシュトン カッチャーと熱い関係になって,婚約までしたのですが,お互いにキャリアー先行で,自然解消に。ヴィジュアルにキュートなカップルでした。この時の会見では 「アシュトンと私は生まれた時から結ばれていたみたい。何かそう言う運命的な巡り合わせを感じたの。繊細で,私の求めるものをすぐに察知してくれて,本能なのか,彼と同じウエーヴ レングス(波長)を持っているせいか。母も彼を気に入ってくれて,もう死にそうにハッピー!」 などと恋に溺れた様子をあっけらかんと話してました。 2

OSCAR ISAAC

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OSCAR    ISAAC 期待の新人,オスカー アイザックはガテマラ生まれの演技も歌もギターもいけるイケメン(こう言うヴォキャブラリーは基本的に避けますが,オスカーにはぴったりだと感じたのです)。 2011年には3本の映画に出てます。 まず「ドライヴ」で,ケリー マリガンの夫役、ライアン ゴスリングがスタントカードライバーと言う主役をした映画, 「テン イヤーズ」ではチャニング テイタムと共演, そしてマドンナが監督した「W.E.」ではアビー コーニッシュが魅かれて行く警備員の役をピアノを優雅に弾いて演じてました。 1980年1月5日に南米のガテマラにキューバ人の父とガテマラ人の母親のもとに生まれ,たった4ヶ月でアメリカに移住。ですからオスカーはほとんどアメリカ人として育ちました。マイアミに住んでいる時,舞台の魅力に魅かれ,ニユーヨークにやって来て,名門ジュリアードの試験に合格。卒業してすぐの役は「PU−239」(06)と言う映画で,ここでロシアのギャングを演じ,これを観たステーヴン ソダーバーグ監督は「チェ」(08)に起用。 次はラッセル クロウがタイトル役を演じた「ロビン フッド」(10)での ジョン王の役と大作の中の小さい役が続きました。 初めてオスカーに会ったのは「サッカー パンチ」(11)と言うアクシヨン喜劇でしたが,外見のラテン系マッチョガイからは程遠いい礼儀正しく,知的な若者で,相手を思いやる姿勢が古風な武者のようでした。 そして今回,10月末日にニユーヨークで堂々の主役を張った「インサイド ルウエン デイヴィス」と言う映画での会見では,自己軽視のユーモアもたっぷりに,頼りになるマッチョマンに成長。 「僕の名前はオスカー アイザック ヘルナンデスと言うのだが,芸名を付ける時,オスカー ヘルナンデスにすると英語のジョン スミスと同じで,どこにでもあるつまらない名前だし,キャステイング係が名前だけ見て,「あ、メキシコ人は要らないね」と考えるに違いないと,少しミステリアスなアイザックを苗字にしたんだ。父は肺の専門医師で首都のワシントンで育ったからし,祖母は国連に勤めていたから僕に取ってアメリカは祖国も同然なのだが,やはりキューバとガテマラのラテンの血は燃えたぎっている。 ジュリアードでの最初の年は,音の出し方,例えば